名誉市民

 
  称号贈呈年月日 顕彰者氏名 生年月日 詳細
八幡浜市(5) 昭和50年2月11日 高橋 英吉 明治31年 1月15日 [功績]
昭和51年2月11日 菊池 清治 明治19年 1月17日 [功績]
平成 4年 2月11日 二宮 忠八 慶応 2年 6月 9日 [功績]
     〃 宇都宮 睦榮 明治30年11月 3日 [功績]
平成15年 2月11日 平田 久市 大正13年 1月29日 [功績]
保内町(9) 昭和48年10月27日 武内 武平 明治24年12月29日 [功績]
     〃 藤堂 献三 明治25年 4月14日 [功績]
     〃 得能  彰 明治25年 8月18日 [功績]
     〃 兵頭 利雄 明治29年 7月31日 [功績]
     〃 都築 孝雄 明治30年 5月 7日 [功績]
昭和51年1月15日 曽我源之jou.gif 明治22年 7月 5日 [功績]
     〃 白石 庄作 明治26年 8月 5日 [功績]
     〃 兵頭 庫三郎 明治31年 1月15日 [功績]
平成7年6月19日 菊池 善治 大正13年 8月 7日 [功績]

 

 

 
高橋英吉(たかはし えいきち)
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○昭和50年 2月11日称号贈呈
○明治31年 1月15日生
○昭和56年 5月14日没

 1898(明治31)年1月15日、父高橋幸助、母シゲの長男として南大黒町に生まれた。高橋家は、俗称米幸という米屋であったが、当時は魚の仲買と小売で生計をたてていたという。
 1910(明治43)年、八幡浜尋常高等小学校の高等科を1学期で退学し、商店に奉公に出たが、1912(同45)年、東京へ出ることができた。ここで、当時の憲政擁護運動に感動を覚え、政治家を志した。法律事務所で書生時代を送りながら、1917(大正6)年日本大学法科に入学し、1920(同9)年、弁護士試験を受け、最年少で合格している。
 1922(大正11)年八幡浜に帰り法律事務所を開設した。1925(同14)年には町会議員に初当選し、1933(昭和 8)年には県会議員に当選した。この間、八幡浜町の合併問題、町制から市制への基礎固めに努力している。1943(昭和18)年から1947(同22)年までは市会議長として地方自治の伸展に尽くした。
 1946(昭和21)年には衆議院議員に初当選し、それから9期にわたって国政に参画した。国会では法務委員長として法務畑で活躍し、戦後の祖国復興に挺身、新憲法の制定にあたっては、「総理大臣の国務大臣任命」「国及び公共団体の賠償責任」「刑事補償」の条文に、高橋の主張が生かされていると言われる。
 戦前・戦後を通じ、永い議員歴をもち、その職務に徹して日本繁栄の基礎づくりに貢献した政治家である。
 1969(昭和44)年には勲一等瑞宝章、1975(同50)年には八幡浜市名誉市民の称号を送られた。
 1981(昭和56)年5月14日、83歳で没した。愛宕山に銅像がある。(『伝記高橋英吉』松井脩参照)

-八幡浜市誌(市制50周年記念版)(昭和62年3月発行)より-

 

 

 

 

菊池清治(きくち せいじ)
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○昭和51年 2月11日称号贈呈
○明治19年 1月17日生
○昭和57年10月23日没

 1886(明治19)年1月17日、八幡浜浦183番地(現浜之町)に、父菊池清治載煕とイトの4男として生まれた。幼名禎治、菊池恵次郎は次兄である。菊池家を継ぎ、襲名して清治と改めた。
 宇和島中学校から第1高等学校へ進み、さらに、東京帝国大学理科大学物理学科に入学、1911(明治44)年卒業した。
 1914(大正3)年、28歳にして八幡浜町長に就任、1918(同7)年の米騒動の際には、その善処に力を尽くし、沈静化を見届けて9月に辞任した。翌年上京して第1高等学校の講師、1922(同11)年から1940(昭和15)年まで松山高等学校教授、1940(同15)年広島高等学校長、翌1941(同16)年から1945(同20)年まで松山高等学校長を歴任した。
 1947(昭和22)年、公選によって市長に就任、2期にわたって、戦後の混乱期の市政を担当した。退任後、1年間松山商科大学教授を勤めた。
 1942(昭和17)年、勲三等瑞宝章を授与され、後、県教育文化賞、県功労賞を受賞した。1976(同51)年には八幡浜市名誉市民に選ばれた。
 頭脳明晰で実直、しかも庶民的な面もあり、市民から親しまれ厚い信頼と尊敬をうけた。
 謡曲、弓道(練士)、囲碁(初段)などを趣味とした。
 1982(昭和57)年10月23日、96歳で没した。

-八幡浜市誌(市制50周年記念版)(昭和62年3月発行)より-
 
 
二宮忠八(にのみや ちゅうはち)
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○平成 4年 2月11日称号贈呈
○慶応 2年 6月 9日生
○昭和11年 4月 8日没

 1866(慶応2)年6月9日、現八幡浜市44番地(矢野町5丁目)に、父幸蔵、母きたの4男として生まれた。
 幼時から物事に対する探究心が強く、苦しい家計の中で勉学を続けるため、独創的な「忠八凧」と呼ばれる風船型の凧などを考案、これを売って学資の足しにしたという。この頃から、彼の大空を飛ぶ夢は芽生えていたように思われる。
 1887(明治20)年、丸亀の歩兵第12連隊に入隊、その2年後、機動演習の帰途、香川県仲多度郡十郷村樅の木峠で、残飯をあさるカラスの群れ飛ぶのを見て、飛行の原理を発見し、発明のヒントを得た。この時以来、「翼の鬼」となって研究に没頭、ついに「烏型模型飛行器」を完成した。
 1891(明治24)年4月29日、丸亀練兵場でその飛行実験が行われた。飛行距離約10メートル、動力は聴診器のゴム管でプロペラは4枚羽根であった。これは、ライト兄弟の飛行機発明より12年前のことであった。
 その後、人を乗せて飛ぶ人力飛行機の構想を練り、複葉の「玉虫型飛行器」を完成。日清戦争の際、設計図を陸軍に提出したが却下された。その後も動力の利用による飛行機の開発を申請したがこれも却下された。そこで、独力で動力飛行機開発を志し、その資金を得るため、1897(明治30)年大日本製薬(株)に入社、1900(同33)年、同社東京支店長となったが、1908(同41)年自ら大阪製薬(株)を設立、社長として製薬界に貢献した。
 彼の偉業は、その後長らく認められなかったが、20数年後の1919(大正8)年、ようやく白川義則将軍の認めるところとなり、続いて、1925(同14)年、逓信大臣より表彰を受け、翌年には帝国飛行協会から有功賞を受けている。1927(昭和2)年、勲六等に叙せられた。
 彼は、七言四句(七七七七)調の新詩体を案出、これを「幡詩」と名づけ世情をうたった。また、「幡画」と称する絵をかいた。
 大平の斐光園は、彼が八幡浜市民の遊園地として造ったものである。晩年は、京都府八幡町に飛行神社(現祭主は2男顕次郎)を建て 、航空犠牲者の霊を慰めることに努めた。
 1936(昭和11)年4月8日、71歳で没した。
 忠八の功績をたたえ、1976(昭和51)年より毎年4月29日に、記念飛行大会が行われている。なお、1986(同61)年10月、生誕地が史跡として市指定文化財となり、生誕碑が建てられた。

-八幡浜市誌(市制50周年記念版)(昭和62年3月発行)より-
 もっと詳しく(「偉大なるパイオニア」のページへ)
 
 
宇都宮睦榮(うつのみや むつしげ)
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○平成 4年 2月11日称号贈呈
○明治30年11月 3日生
○平成 7年11月27日没

 1926(大正15)年に病院を開設されて以来、市民の生命と健康確保のため当地域の医療の充実に努める一方、社会福祉、教育文化等市政の発展に尽くされた功績は誠に卓絶である。この間、八幡浜市立図書館協議会長、八幡浜市社会福祉協議会長、八幡浜市議会議長、愛媛県議会議員、八幡浜医師会長、愛媛県医師会代議員会議長、日本医師会代議員等幾多の要職を永きにわたり勤められ、市政の発展のため尽力された。

-名誉市民選定議決提案理由(平成4年1月)より-
 
 
平田久市(ひらた ひさいち)
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○平成15年 2月11日称号贈呈
○大正13年 1月29日生
○平成 5年 3月18日没

 1963(昭和38)年5月から市議会議員(1期)、1967(同42)年4月から愛媛県議会議員(2期)を経て、1975(同50)年5月八幡浜市長に就任、1991(平成3)年4月30日に至るまでの28年の永きにわたり、地方自治行政に関与し、その間終始、八幡浜市の財政基盤の確立、市政の進展に尽くされた功績は誠に卓絶である。
 特に、1975(昭和50)年5月、八幡浜市長に就任と同時に、かねてから念願であった「市民参加によるみんなで築くまちづくり基本構想」を策定し、港湾再開発、地場産業の振興、生活環境の整備、教育施設の整備等に努められ、現在の八幡浜市都市基盤づくり、農林水産業の先駆的基盤づくりなどの功績は大である。

-名誉市民選定議決提案理由(平成14年12月)より-
 
 
武内武平(たけうち ぶへい)
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○昭和48年10月27日称号贈呈
○明治24年12月29日生
○昭和58年5月21日没

 1891(明治24)年12月29日、宮内村舟木谷において父宇平・母クマヨの長男として生まれた。
 勤倹力行の篤農家であった宇平は、多年にわたって村会議員を務め、産業組合の創設・百年貯金による貯蓄思想の啓発などで知られていた。武平もまた、父から多くの影響を受け、農村振興のために多岐にわたる活動をしている。
 1920(大正9)年宮内村養蚕組合理事に就任後、長年にわたり養蚕・製糸事業の振興安定に尽くした。保証責任宮内製糸販売利用組合設定理事組合長、愛媛県産業組合製糸組合副組合長などのほか、全国産業組合製糸組合連合会議員を務め、戦後の1946(昭和21)年西宇和蚕糸農業協同組合設立理事組合長となった。1953(同28)年から2度にわたり、日本蚕糸理事として日本を代表し、イタリア・ベルギーでの国際絹業協会総会に出席している。
 林業の振興にも力を注ぎ、1948(昭和23)年県森林組合連合会理事になり、以後、県林業振興協会副会長や宮内森林組合長にも就任して、この分野での発展に寄与した。
 1929(昭和4)年宮内村議会議員となり地方自治に関与、1947(同22)年宮内村長に選ばれ、村政や地域の農業の伸展に努力した。また、同年愛媛県議会議員に当選、1955(同30)年まで2期にわたって県政にたずさわり、その職責を果たすべく尽力した。1956(同31)年宮内農業協同組合組合長に就任、当面する農協経営の課題に積極的に取り組んだ。
 学校教育にも関心をはらい、宮内小・中学校、川之石高等学校の教育現場への支援を側面から積極的に行っている。
 1924(大正13)年県下で初めて夏ミカンの直接東京出荷を行った宮内の(まるみ)組合当時、「精神一到万事必成」と前田農相と直接談判し成功に導くなど、若いころから熟慮決断の人であった。
 一方で、堅実な経営体質の農協基盤をつくるため、職員にも「上見て励め、下見て暮らせ」と語り、自らも率先実践し、働くことに生きがいを見出し、「人間飯の食える間は働け」と、雨の日も雪の日も休むことはなかった。
 1983(昭和58)年5月21日、91歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-
 
 
藤堂献三(とうどう けんぞう)
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○昭和48年10月27日称号贈呈
○明治25年 4月14日生
○昭和48年 9月24日没

 1892(明治25)年4月14日、須川に酒井勇雄・テイの3男として生まれた。1902(同35)年喜須来小学校を卒業、八幡浜商業学校に進む。同校第1回の卒業生である。のちに立花商会・近畿電気工事株式会社社長として電業界に雄飛した佐竹則翁とは在学中から肝胆相照らす仲で、うちそろって京阪電鉄に入社した。
 川之石の藤堂健一郎長女蔦子と結婚する。
 京阪電鉄に勤務の中途から育英事業に深い関心をもち、1927(昭和2)年3月大阪高等医学専門学校理事長となった。これより、私学勃興の波にのって情熱を注ぎ育英に努めた。その後、大阪医科大学に発展改称し理事長として手腕をふるった。また、その間に、高槻高等学校の設立、関西医科大学の理事長を兼務するなど、40数年間を学校経営のために力を尽くした。
 天才的な企画力と粘り強さで危機を乗り切り、私学教育の振興に貢献したが、1973(昭和48)年、81歳にして大阪市で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-
 
 
得能彰(とくのう あきら)
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○昭和48年10月27日称号贈呈
○明治25年 8月18日生
○昭和50年 4月16日没

 1892(明治25)年8月18日、宮内村において、父種藏の長男として生まれた。
 県立松山農業学校を卒業後、県立農事試験場で実習を積んだ。その後、西宇和郡農会技手として勤め、農業の近代化に直接たずさわった。
 父種藏が公共のために役職にたずさわったように、彰もまた、推されて1920(大正9)年8月より1929(昭和4)年1月まで3期8年6か月を宮内村助役として務める。
 1929(同4)年1月19日に村長に当選就任、1946(同21)年11月6日までの7期17年10か月の長きにわたって、激変する時代の村行政をつかさどった。この間、1931(同6)年9月25日に県議会議員に初当選、以来1946(同21)年までの3期(15年)県議会議員として県政にたずさわった。また、1940(同15)年12月より1942(同17)年まで県議会の副議長を務めている。
 戦前においては、満州事変・日華事変の前後、不況にあえぐ村民の疲弊を救うため献身的努力を払った。特に土木行政に力を尽くし、当時県道川之石-長浜線開通にむけての努力は並々ならぬものであった。1939(昭和14)年の宮内尋常高等小学校校舎、 つづいて講堂の新築落成をみた。 県山村会評議員・郡果物同業組合長・保内櫨実実行組合長などに就任している。戦後も地元のために、教育委員・監査委員などを務め、地方自治行政に多大の貢献をした。
 1975(昭和50)年4月16日、82歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-
 
 
兵頭利雄(ひょうどう としお)
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○昭和48年10月27日称号贈呈
○明治29年 7月31日生
○昭和62年6月15日没

 1896(明治29)年7月31日、喜多郡平野村野田に父井上勝太郎・母タカヨの子として生まれ、川之石兵頭家に入籍した。兵頭家は寅一郎によって始められた蚕種業の「日進館」の名で全国の養蚕家に親しまれていた。
 1941(昭和16)年、株式会社日進館の3代目社長に就任、愛媛県蚕種共同施設組合専務理事となったが、戦中・戦後の統制経済下で苦労が多かった。1946(同21)年、愛媛蚕種(株)を設立し社長となり、県下唯一の蚕種製造会社として現在に引き継がれている。
 この間、県蚕糸業発展の基礎を築くとともに、終始一貫して蚕品種の改良、養蚕経営の合理化に努め、わが国の蚕種団体の育成に貢献した。また、川之石農業協同組合長を23年余にわたって務め、地方農業振興に尽力した。
 俳号を杜子郎と称し、昭和初期の川之石における、美名瀬吟社・浮巣会などの俳句会主要メンバーでもあった。
 1987(昭和62)年6月15日、90歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-
 
 
都築孝雄(つづき たかお)
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○昭和48年10月27日称号贈呈
○明治30年 5月 7日生
○昭和51年 1月13日没

 1897(明治30)年5月7日、宮内村で父吉太郎・母クニの長男として生まれた。
 福岡県で呉服衣料専門の商業を営んでいた父の影響を受け、少年のころから士魂商才を身につけて育った。
 川之石に帰居、銀行に勤めたり、新聞販売店の権利を得て経営にあたったりした。また、川之石木材(株)を引き受けたり、愛媛木蝋工業(株)・カワイシ醤油(株)の役員を務めた。多様な若き日の体験が、やがてこのような実業家としての地歩を揺るぎないものとする礎となった。
 推されて川之石町議会議員となり、1942(昭和17)年1月5日、21代目川之石町長に就任。1946(同21)年11月4日まで、戦時下から戦後に至る混迷の時期を、人心を把握し町政の執行につとめた。この間1944(同19)年3月農業団体法のもとで、川之石町信用販売購買利用組合と川之石町農会の統合による川之石町農業会を設立し組合長も兼ねた。食糧増産・配給事務などの戦時下の農業政策を遂行したのである。
 1955(昭和30)年3月新生保内町の発足に伴い、4月25日初代町長に当選。以来3期12年間にわたり、町村合併後の山積する課題解決と町の発展に尽力した。、殊に、財政再建を果たしたのち、教育の充実・地方産業の振興発展・庁舎の建設・町民プールの完成など、将来に向けての町の基礎固めに貢献した。
 外柔内剛、卓越した政治手腕をいかんなく発揮して惜しまれながら引退したのち、1976(昭和51)年1月13日、 78歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月 発行)より-
 
 
曽我源之jou.gif (そが げんのじょう)
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○昭和51年 1月15日称号贈呈
○明治22年 7月 5日生
○昭和51年11月 6日没

 1889(明治22)年7月5日、須川において、父福太郎・母コトの長男として生まれ1899(同32)年度に喜須来小学校を卒業している。小さいころから向学心が強く、周囲の勧めもあって、八幡浜高等小学校に学んだ。
 青年期から、才気喚発、物事をきわめて冷静に観察し、適確な判断のもと実践に移した。
 明治末期から大正期にかけて保内郷は夏ミカンの生産が盛んであったが、まだ生産者の出荷組合はなかった。日土の maru7.gif組合が、画期的とも思える夏ミカンの東京市場開拓と輸送時間の短縮を計画したが、具体的に遂行したのは源之jou.gifであった。
 1909(明治42)年近衛兵入隊中に伯父の日土、maru7.gif組合二宮嘉太郎に頼まれ、勤務のかたわら青果市場の取引状況をつぶさに把握し東京市場を開拓、新ルートを開いた。輸送時の糸崎港(広島県)中継による日数短縮など、生産者がわに立った出荷組合の経営基盤を築いた。
 1919(大正8)年1月、maru1.gif青果出荷組合長に就任、1941(昭和16)年青果物配給統制規則による団体の統合に至るまでの23年間、一度の欠損を生むことなく生産者組合の模範とされた。産地直結販売に尽くした経験は、西宇和青果組合専務、1948(同23)年創立の西宇和青果農業協同組合長となったのちもいかんなく生かされた。柑橘栽培、市場開発などに大きく貢献した。
 多忙のなかで、川之石町議会議員、川之石農地委員を務め、松山地方裁判所各種調停委員並びに司法委員として活躍するなど広範囲にわたる功績を残した。
 1976(昭和51)年11月6日、87歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-

 

 

 

 

白石庄作(しらいし しょうさく)
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○昭和51年 1月15日称号贈呈
○明治26年 8月 5日生
○昭和50年 5月 6日没

 1893(明治26)年8月5日、宮内村舟来谷の白石善太郎・イサの2男として生まれた。
 1903(明治36)年度宮内尋常小学校を卒業、青石高等小学校に進む。のち、請われて白石利三郎家を継ぐ。
 資性きわめて温厚篤実で、青年期より村の将来の指導者として広く衆望を担った。1934(昭和9)年、宮内村学務委員となり、約10年間にわたり小学校の移転新築をふくめ教育の充実発展に寄与した。
 また、宮内村議会議員として地方自治の進展に務めていた。1951(昭和26)年4月、選挙の結果27代村長に当選就任、懸案であった役場の移転新築完成を果たした。
 町村合併にあたり、村内における多数の意見を尊重集約し、新保内町の誕生に向けて力を尽くした。合併後は、監査委員として、その職責を果たし、地方自治・行政分野に大きな足跡を残している。
 その一方で、戦前・戦後の農業振興に寄与した功績も見逃すことができない。戦後、第2次農地改革を進めるため設置された農地委員会委員に選ばれ、転換期の農業施策の遂行に活躍した。長らく宮内農業会理事を務め、つづいて宮内農業協同組合理事、1955(昭和30)年5月からは組合長に就任し、地方農業の振興にあたった。
 1975(昭和50)年5月6日、81歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-

 

 

 

 

兵頭庫三郎(ひょうどう くらさぶろう)
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○昭和51年 1月15日称号贈呈
○明治31年 1月15日生
○昭和55年 3月30日没

 1898(明治31)年1月15日、川之石において、父善一郎・母トシノの長男として生まれた。1910(明治43)年3月25日、川之石尋常小学校第1回卒業生である。
 1917(大正6)年3月、八幡浜商業学校を卒業した。
 1945(昭和20)年9月5日から川之石郵便局長となる。1956(同31)年保内郵便局と改称、電話業務が自動化へと実施される過渡期の1966(同41)年6月30日までの20有余年を、地域に密着した郵便業務にたずさわった。誠実で、だれに対してもわけへだてなく接する人柄が衆望を集め、川之石町議会議員に推された。
 敗戦後の民主化をめざすなかで1946(昭和21)年12月、第2次農地改革施行のための川之石町農地委員に選ばれ、川之石町農地委員会長に就任している。1948(同23)年2月には、発起人25名とともに川之石町農業協同組合を創立し、新時代の農業経営組織と業務内容の改善に寄与した。
 学識と信望をかわれて、松山地方裁判所各種調停委員並びに司法委員・人権擁護委員を歴任した。殊に、1951(昭和26)年に人権擁護委員の委嘱を受けてから20数年間にわたりその職務を全うし、地域における自由人権思想の普及と高揚に貢献した。
 1980(昭和55)年3月30日、82歳で死去した。

-保内町誌(改訂版平成11年3月発行)より-

 

 

 
菊池善治(きくち ぜんじ)
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○平成 7年 6月19日称号贈呈
○大正13年 8月 7日生
○平成12年 9月14日没

 1959(昭和34)年4月から1977(同52)年12月まで18年にわたり保内町議会議員に在職し、特に1964(同39)年5月から1965(同40)年4月まで、1966(同41)年10月から1967(同42)年4月まで、1967(同42)年5月から1971(同46)年4月まで、1973(同48)年6月から1975(同50)年4月まで、1975(同50)年5月から1977(同52)年12月までの5回にわたって町議会議長に在任し議会の円滑な運営に貢献するとともに、民主的な地方議会制度発展に努めた。
 さらに、1977(同52)年12月から1993(平成5)年12月まで4期16年にわたり保内町長に在職し、高まいな政治信念をもって地方自治の伸展に尽力した。
 町長在職の間は、1989(平成元)年6月から1991(同3)年6月まで愛媛県町村会副会長、1983(昭和58)年11月から1985(同60)年10月までと、1992(平成4)年7月から1993(同5)年10月までの2期、西宇和郡町村会長に在任し、広域行政の推進並びに管内町村間の連携強化に努めた。
 又、保内町宮内財産区管理者、保内町農業委員会会長を歴任し、町産業振興に大きく貢献した。

-名誉市民選定議決提案理由(平成7年6月)より-